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熊で考える日本と欧米の動物愛護

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目次
熊で考える日本と欧米の動物愛護の違い
なぜ少数派の意見が通るのか?
欧米の動物愛護
日本の世界観での人間と熊
日本人は肉を食べなかった?
歴史と穢れ
なんとなく批判できない
穢れが邪魔する現実的な選択
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熊で考える日本と欧米の動物愛護の違い

熊で考える日本と欧米の動物愛護:熊で考える日本と欧米の動物愛護の違い
最近、熊が里に降りてきて、人を襲う事例が増えていますよね。原因は山に食料がないとも、里に休耕田が増えたとも、犬を室内で飼うようになったから、などなどいろんな要因がありますが、そこは割愛し、管理人の個人的な見解の話をしようと思います。

あくまで個人的な見解を含むので、その辺りはご了承お願いします。
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なぜ少数派の意見が通るのか?

日本の動物愛護団体が「熊を山に返せ」「熊を殺すな」と主張する。これは熊が近くまで来ている人達からすると、てんで現実的ではないです。でも、彼らには真っ当な主張だと思い込んでいる。

それをネットでは「動物愛誤団体の間違いだろ?!」と突っ込むのです。おそらく動物愛護団体を批判している方が「多数派」なんですよ。ほとんどの人が「熊の駆除やむなし」と考えているでしょう?

でも、なぜか動物愛護団体の主張の方が通りやすい…少なくとも少数派の割には通っている気がしませんか??これって民主主義の国としてどうなの?

不思議ですよね。

欧米の動物愛護

熊で考える日本と欧米の動物愛護:欧米の動物愛護
さて、欧米の世界観では神がこの世界を作り、人間をつくりました。人間は神によって作られたのですから、人間は神のものです。ってことは人間を傷つけるということは神への冒涜になります。これが人権です。
熊で考える日本と欧米の動物愛護:補足情報
人権は神が人を作ったから生まれながらに持っているのです。
熊で考える日本と欧米の動物愛護:補足情報
ってことは動物も神が作ったのですから、動物にも人権のようなものがあってしかるべきでしょう?動物権というべきものですかね?熊にだって生きる権利があるぞ!ってことです。
熊で考える日本と欧米の動物愛護:補足情報
こう考えると人間と動物は同じ父なる神から生まれた兄弟のようなものです。これは雑に扱えないですよね。人権が大事なら、同じくらいに動物権も大事なはずです。だって、その根拠がそもそも神への信仰なんですからね。この考えが強くなったものが「動物愛護」であり、さらに強いものが「ベジタリアン」「ヴィーガン」になっていきます。

欧米の動物愛護は人権意識の副産物みたいなもの、だと思っていいんじゃないかなと。

日本の世界観での人間と熊

熊で考える日本と欧米の動物愛護:日本の世界観での人間と熊
日本人の世界観では人間は神に作られていません。なので欧米が主張する「人権」は理解できません。感覚が違います。ですから、当然、動物権という感覚もないです。日本人にとって、熊は兄弟ではなく、人間と熊は、どこまで行っても「人間と熊」です。

なので欧米の動物愛護(と人権)とはメカニズムが違うわけです。じゃあなんで、日本にも動物愛護が広がってるのよ?ってことになりますよね。

ある程度は欧米に影響されたってのがあります。でも、日本の信仰・文化が土台になっている部分もあります。

日本人は肉を食べなかった?

日本では伝統的に肉食をしていませんでした。江戸時代まではそうでした。明治に入って、牛や豚を食べるようになりましたが、それまでは肉を食べていませんでした…というのは、ある意味では嘘になります。

まずはクジラやイルカは食べていましたし、鳥も食べていました。それにウサギは鳥だと言い張って食べ、馬は「桜の肉」、猪は「牡丹の肉」、鹿は「紅葉の肉」と言い張って食べていました。実際には食べていたんですが、言い換えるということは、肉食はあんまり体裁の良いものではないという感覚があったんでしょうね。

ではどうして、体裁が悪いのかというと、それは肉食とはつまり「穢れ(ケガレ)」だからです。日本人は穢れを嫌っていて、肉食は体裁が悪かった。風呂に毎日入るのも穢れを洗い流すためです。

日本人は「死」に関わることを嫌うんです。

歴史と穢れ

平安時代に日本は死を恐れるあまりに死刑と軍隊を廃止しました。その結果、公家の政権は政治能力を失い、その結果、平家と源氏が台頭し、鎌倉幕府が誕生し、それ以降は武士が政権を握るようになります。

現在の動物愛護団体が「熊を駆除するな!」と主張する様子は、穢れはないが現実には通じない「公家的」です。それを批判する人たちは、穢れているが現実的な「武士的」です。

そして欧米の動物愛護は神への信仰を土台にしたもので、日本の動物愛護は穢れへの恐怖(忌避)を土台にしたものと、ぱっと見には似ているんですがちょっとメカニズムが違うんです。

なんとなく批判できない

熊で考える日本と欧米の動物愛護:なんとなく批判できない
武士たちが果たして、どこまでも現実的だったかというと、穢れを嫌う気持ち自体はあり、それを取り除くために仏教に傾倒するようになります。仏教は穢れの概念が薄いからです。つまり、武士も公家と同じような感覚を持った普通の日本人ってことです。

それは現代の私たちも同じで、動物愛護団体を批判する一方で、なーーーーんとなく、強く言えない気持ちも分かりませんか??

現実的には「熊は駆除しないといけない」のに、「強く言えない」って感覚。

動物愛護団体の「飼い犬を虐待するな!」という主張は共感できるが、熊が里に降りてきているのに駆除に反対するのは現実的じゃない。それでも、そこまで強く言えないという雰囲気。それは日本人の死の穢れを嫌う性質が原因でしょう。

それが過剰に主張する動物愛護団体という少数派が、多数派を黙らせている現状を引き起こしている、のではないかと思っています。

穢れが邪魔する現実的な選択

日本には鳥獣保護法があり、明らかな害獣・害鳥を駆除できない状態です。動物愛護を完全に否定するわけじゃないですが、これが日本の農業に不利益をもたらせているってのもあるので、多少緩和するべきだと思うんですよね。

「日本人が穢れ意識に縛られて現実的な選択をできないことがある」という考えが少し広がるといいんじゃないかなと思います。

それでは、また。
つくづく、対応しなくちゃいけない自治体の役人さんは大変だと思う。
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