2012年頃の生花・花屋業界の状況・展望

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2012年頃の生花・花屋業界の状況・展望

このページは以前、コラムページ(column.sodatekata.net)に書いていたものを移設したものです。2013年ごろに書いたので内容はかなり古く、的外れなところもあるでしょうが、ちょいちょい閲覧されていたので何かの参考になればと思い、移動させました。
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要約

花屋さんを経営している管理人である私――つまり近藤が考える2012年前後の生花花屋業界の状況などをまとめています。

生花業界の特徴
花屋さんの業界は他の業界とはまったく違う点があります。ひとつは消費の仕方。もうひとつは流通上の特殊性です。この二つが、この業界にある特殊性を持たせています。それが「零細店舗の方が経営上有利」ということです。

実は生花業界は零細店舗のほうが大型店舗・複数店舗を持っている会社よりも経営上で有利なのです。そのために、全国に2012年の現在でも二万店舗の花屋があります。

状況の変化
この零細店舗が有利という特殊な状況が、幾つかの変化がおきたことで、変わっていきました。そのひとつが「外国産生花の高品質化」です。外国産生花は広大な土地で大量に生産されて、大量に日本に供給されます。これは量販店にとって渡りに船。量販店が成立する前提が整い、今度は逆に零細店よりも量販店のほうが経営が有利になっていきます。

巨大化する花屋
花屋さんはかつてのような、小さな店舗の家族経営から、組織による大きな花屋運営へと移行していきます。これは零細店が消えて行くという意味であり、同時に大きな組織が有利になっていくという意味です。そして大きな組織はさらに大きな組織に勝つために、大きくならざるを得ないという意味でもあります。

日本の生花の需要の特殊性

日本の花の需要は特殊
意外なことに、日本のように花市場が地方地方にある国はありません。ヨーロッパのオランダにはアールスメイヤという世界最大の花市場があります。ヨーロッパで消費される花は一旦アールスメイヤに集められ、そこから各地へと輸送されます。アールスメイヤには花の中卸が集まり、主に中卸が各花屋へと花を届け、それが消費者に渡る――という具合です。

日本では各都道府県に花の市場があり、そこに花屋が集まって花を仕入れて花を売ります。中卸もいますが、ヨーロッパのように大きな役割は果たしていません。

なぜ、日本の構造は特殊なのか
それは結局日本の生花の需要が非常に多種にわたっているから、だと考えています。日本ではバラカーネーション・ユリ・菊で、かなりの割合を占めるものの、それ以外の花が非常に重要です。

例えば桜。

桜は春に咲くものです。桜を見ると春を感じます。バラはどうでしょうか? 菊はどうでしょうか? 年中見かける花がどれだけ綺麗でも「季節」は感じられません。この季節を象徴する植物は多種にわたり、大量には出回りません。ところが、その季節を象徴する花は、少量であっても価値が高く、これを細かく供給するのが、「花屋」の大事な役割でした。

花屋が大量にある理由のひとつ
少量多種の「季節を感じる」商品。これを提供するためには各都道府県に花市場が必要で、そこに集まる大量の零細店舗がないと対応できなかったわけです。

花屋には季節感が必要

春になるとチューリップスイートピー、桜。夏には芍薬ヒマワリダリア。秋にはボケ、サンキライといった枝ものも人気。お正月にはスイセンロウバイオモトセンリョウマンリョウ、松。冬には椿など。とりあえず思いつくだけ書きましたけども、これはほんの一部で、実際にはもっと多種な植物が花屋を飾ります。これらの花は流通の量でいうと大した量ではありませんし、売り上げの割合もさほどでもありません。

これら季節感を感じる植物は花屋にとっては肝。肝心要(カンジンカナメ)の存在です。というか季節感の無い花屋なんて存在価値があるでしょうか??

季節感を支えるものとは?
最近では外国産のシャクヤクが入荷します。外国といっても、オーストラリア。オーストラリアは日本とは季節が逆。だから真冬にシャクヤクが入荷できます。

真冬にシャクヤク。

ホントは凄いことなのですが、これが「すごい」と感じるためにはシャクヤクがいつ頃に咲くか知っていないといけません。知っていますか?? 知らないならばシャクヤクで季節を感じられませんし、冬にシャクヤクを見ても驚けないのです。

季節の知識の源泉は
その知識はどうやって得ていたのか?? 昔よりも日本に自然が無くなった――という古き良き時代を懐かしみたいところですが、どうも違います。この理屈では「田舎の若者は季節の花を知っている」ということになりますが、そういうことはありません。都市部の人も知りませんが、田舎の若者も知りません。

季節の花の知識を広げていたのは、おそらく「生け花」です。

生け花と生花業界の関係

生け花と生花業界は切っても切り離せません。生け花の材料を納める仕事で、運営している花屋さんは沢山あります。生け花の仕事だけで運営している店でなくても、売り上げの大きな部分を占めている花屋も入れると相当な割合になるはずです。

リベートを収めても仕事がほしい
生け花の仕事を得るために花屋さんは、売り上げの一部を生け花の先生にリベート(謝礼金)として収めている人がいるほどです(全員じゃないですよ)。そこまでして仕事を取りたいのです。というよりはそのくらい花屋さんの仕事は数が少なく、取り合いになるのです。

花屋さんは生け花と葬儀のために
花屋さんは明治に発生したといわれています。それまでも花屋さんはあったのでしょうが、それは事実上の植木屋さんです。明治に生まれた花屋さんはどうやら、葬儀の花を供給するために生まれたらしいのです。それが生け花の花も供給するようになりました。

ところで、生け花はそれ以前はどうやって「材料」を得ていたのでしょうか?? 答えは簡単。自前です。つまり生け花ってのはそもそも、自分の庭に生えている花や、自分の裏山に生えている枝を切ってきて飾るものだったわけです。庭の花を床の間に生ける。室内に自然を取り込む。それが生け花の本来の目的です。

でも面倒ですから花屋さんから購入するようになったようです。

生け花の衰退について

少々厳しいことを書きますが
生け花人口は当然ながら減っています。その減少の原因の最大のものは、住宅環境の変化です。前のページで書いたように、生け花の本来は、室内に自然を取り込むことであり、床の間に飾るためのテクニック取得です。ところが、この「床の間」がない住宅が普通になったのです。

都市部に住み、マンションに住んでいると、花を生ける場所も機会も当然無くなって行きます。田舎でもなかなかそんな優雅なことは出来なくなっています。せいぜいお正月や親戚が来るお盆や、その他来客時くらいでしょう。

たしなみ
生け花はかつて「たしなみ」でした。嫁に行く女性が当然身に着けるべきものでした。かつては何処の家にも床の間があったからです。だから生け花の先生は、生徒に対して強く指導する立場にありました。それは単に教えるというだけでなく、マナーや年長者への態度や心構え、はたまた人間関係の機微といった「生け花」という範囲だけでなく、「生きる」というかなり広い範囲をカバーするものでした。

と、書くとイイ感じに見えますが、生け花での人間関係はかなりドロドロとしていて、技術よりも人間関係のほうがずっと面倒くさくも大事なものです。技術より内部の人間関係が優先される傾向は本末転倒といえますが、「たしなみ」という意味では、むしろ目的に合致していたと思います。

変化する状況
しかし、生け花の技術が嫁入りに必要ではないものになってくると、先生は生徒から料金(月謝)を得て、花の技術を教えるというカルチャースクールの先生と立場は変わりません。

ですが、生け花は相変わらず、過去の組織の手法から変化できなかったようです。面倒な先生。技術より優先される人間関係。生徒は増えず。先細っていく業界。

生け花の可能性、内観と哲学

生け花ではなく華道
生け花と書いていましたが、華道というのが正しいと個人的には思っています。花を生けるという作業は単に花を飾る技術ではなく、「自分を見つめなおす」作業です。

生け花は早く「たしなみ」から脱して、本当の意味での「道」へと昇華すべきと私は考えています。フラワーアレンジメントも、華道も、その表面は「花」で覆われていて、見た目はとても華やかに見えます。でもそれは嘘っぱちです。どちらもやっていることは「花を殺す」ということだからです。

もしも花が好きならば、園芸をすればいいのです。農家になればいいのです。そうして育てればいいのです。花を生けるという作業は、「自然を取り込む」とか、「自然に触れる」という建前(たてまえ)の元に、花に「綺麗」とか「美」を強要し、殺しているだけです。エゴです。かなり薄汚くどす黒い自我です。

それでも人は花を飾る
デザインが好きならば、絵画でいいじゃないですか。イラストでいいじゃないですか。パソコンでイラストを描けば、紙も無駄にならないし環境にもやさしいです。なぜ花を生けるのか? 命を殺してまで生け花をするのか? 生け花をするべきではない、という意味ではないです。このあたりを曖昧にしていては、生け花をする意味がないのです。

花の命への責任
花を殺してでも生けるならば、その責任があると思います。それは、切花延命剤で長持ちさせることでしょうか? それは綺麗に生けることでしょうか? 花を通して自分を表現することでしょうか? 自分が成長することでしょうか?? どれも正解だと思っています。

華道の強烈な可能性
華道はとんでもなく高い可能性を秘めています。実際華道をやっている人は「超楽しい」と思っているハズです。花で表現する喜び、成長する喜び、内観すること、デザインする喜び、植物のことを知ること、非常に多くの喜びが眠っています。過去の面倒なしきたりを廃して、この喜びを爆発させてほしいです。これも花の命への責任のとり方だと思っています。

すでに、「たしなみ」として生け花を習う時代は終わりました。これからの華道は誰もが習うものではなく、習った人の質を高めて行くものになるはずです。量――つまり生徒数ではなく、質です。質が高まればいずれ、量も追いかけてきます。

生花業界はスケールメリットが利かない

正確にはスケールメリットが利かなかった。ということになります。

大量に買えば高くなる矛盾
普通の業界、普通の流通であれば、大量に購入すれば単価は安くなるものです。例えば、1個100円のネジがあったとします。これを100個買う場合と、10000個買う場合では、単価は同じでしょうか? 普通は沢山買えば買うほどに単価は安くなります。10000個買った場合、100個買うよりも1割や2割くらいは値引きになるかもしれません。

ところが切花に関して言えば、沢山買えば沢山買うほどに単価が高くなるのです。

生産と需要の関係
日本の農家は限られた農地しかありません。当然ながら、この限られた条件で利益が最大になるようにします。気候不順による生産不安定やセリ価格の変動でも一定の利益を確保するためには、一種の植物を生産するのではなく、多種の植物を育てるようにします。

例えば赤バラを生産している農家があるとします。バラを育てる技術があるのですから、赤バラだけでなく、ピンクや黄色のバラも生産します。赤いバラといっても、花びらがフリルになっているものや、模様が入っているもの、赤でも黒に近い赤や、朱色に近い赤もあります。そういう風に、出来るだけリスクを分散します。経営では当然の手法です。

その結果
すると自然と花の供給が多種少量になります。農家が沢山あるのですから、全体では均一なものが大量になるのではないかと思うかもしれませんが、花は生産者によって品質がまったく違います。品質が違えば価格も違います。長さも違います。同じ品種でも農家によって花びらの数が違い、持ちも違います。

それで――同じ商品を大量に仕入れるということが難しくなるのです。量販店にとっては、大小さまざまで価格も様々な花を仕入れても処理や対応に困ります。ですが、多種少量の生花市場では品質・価格が均一な花を仕入れるのは、非常に難しく、無理に揃えると単価がめちゃくちゃ高くなります。

零細店が有利
大量に揃えると高くなる。ということは少量をチマチマと仕入れる零細店こそが生花業界では王道でした。店舗を複数持たず、一店舗での収益を最大にする努力をすれば、大もうけは出来なくても食うには困らない最善の方法でした。

生け花と季節感と零細花屋の関係

季節感を感じるためには、その花がいつ咲くのかを知っていなくてはいけません。その知識は生け花などで花に触れることで広まっていました。その季節感を感じる花・枝ものを供給するためには、大量供給の量販店ではなく、細かく対応できる零細花屋である必要がありました。

この三者は互いに互いを支える相互関係にありました。商売上、花屋は生け花の先生の下請けには見えますが、実際にはこの業界を支え、同時に支えあう関係でした。

ところがこの三者が衰退しました。同時といってもいいでしょう。生け花の衰退に関してページを割きましたが、それが全てを引き起こしたのではなくて、全体が沈むこむような形でした。互いが支えあう関係なのですから、当然です。誰が足を引っ張るということではありません。

正直な話、時代の潮流だったのでしょう。社会の変化に対応できなかったという言い方も出来ますが、かつての生花業界の繁栄をそのままに――ということが有り得ないのです。

そこに流通上の変化が
ただそれだけならば――生け花や小売分野が不況といっても、ブライダルや葬儀といった仕事はなくなるわけもありません。そういった需要は今後も存在し続けるわけですから、縮小したとしても、生花業界の仕組みが激変するということはないハズです。

しかしそこに、流通上の変化が加わったことで、生花業界の仕組みそのものが大きく変化していきます。

外国産生花の高品質化の影響

まだ2000年までは、外国産の花なんてのは、花の市場に到着した時点で半分腐りかけのような商品でした。常識的に考えれば、南米やアフリカやインドで生産した切花が、日本の市場に届くまでにかなりの日数が掛かるのです。それが具体的に何日なのか、それは分かりませんが、4,5日か、もっと長期だったかもしれません。それは切花の品質維持としては致命的です。国産の切花と比較するまでもなく、外国産の花は低品質でした。いや、商品として論外でした。

ところが2005年ごろまでには、国産に迫る勢いで品質を高め、あっという間に同列になりました。国産切花といってもピンきりですから、国内トップレベルの花は外国産よりもまだまだずっと高品質ですが、それは一部の話で、高品質といっても、コストパフォーマンスを考えると外国産に軍配が上がります。

高品質化の理由は分かりません。現地のインフラが整備されたのかもしれません。切花の延命剤が開発されたのかもしれません。現地の生産技術が高くなったのかもしれません。日本での検疫が簡略化されて、流通の日数が短縮されたのかもしれません。

現在は外国産の花が主流に
菊、バラ、ユリ、カーネーションといった定番商品はすっかり外国産に侵食されてしまいました。今後はこれらの国内生産者は全滅する可能性すらあります。

国産が負けた理由は円高にも
民主党が政権をとった直後の夏、藤井財務大臣が「円高を容認する」と言う発言をしたとき、私は青ざめました。外国産の商品が品質を高めた原因には間違いなく円高があります。利益が出るから、技術を高める努力が出来るし、新しい品種を育てることも出来る。国内の農家はデフレの中で掛けるべきだった費用を削らざるをえず、外国勢力になすすべなく、シェアを奪われました。円安ならばこれほどまでに、やられることは無かったはずです。

外国産生花と季節感

外国産というのは、例えばアフリカの広大な土地に見渡す限りにカーネーションを植え、それを毎日何万本、何十万本も世界中に出荷するのです。その上、人件費は安く、円高で利益が出やすい。

私たちは外国産の農作物は低品質と思いがちですが、それは誤解です。アフリカの雨の少ない地域は日本よりも日照時間が長いために、花びらは多く、色合いも鮮やか。花だけでなく、こういった外国で育てられた野菜は日本産の野菜よりも栄養素が高いのです。ただし農薬がふんだんに利用されているので、食べるのは気が引けるだけで、鑑賞する花なら、その農薬問題も無関係。また気温も一定で、生産管理も簡単で、コストを抑えられる理由です。

低価格・高品質――……
外国産生花の流入には別の理由もあります。

季節感が希薄になったのも
アフリカの年中一定の気候では年中カーネーションが同じように生産できます。バラもユリもキクも何もかもです。季節感も何もありません。本来、趣のない、無味乾燥な、大量生産は「花屋」とは縁遠いものでした。真反対と言っても構わないほどです。

ところが、消費者に季節を象徴する植物の知識がなくなれば、花はただ「キレイ」なだけの商品です。大量生産で十分なのです。スーパーやホームセンターで束になっている花で十分なのです。

少なくとも日常の花は。

生花店の巨大化と花市場の変化

外国産生花の高品質化・低価格化のおかげで、生花を大量販売することが出来るようになりました。

多種少量の生産の国産切花を買わなくてはいけなかった、2000年以前と違い、外国の大量で均一な商品が簡単に仕入れることが出来るようになりました。これはすさまじい流通の変化です。今までとは真反対です。

大型店・会社の時代へ
スケールメリットの利かない状況は無くなりました。つまりこれからは、大きな会社が有利になります。外国から幾らでも市場に花を寄せることが出来るのです。花市場は零細店とチマチマ取引するのではなく、大きな会社と取引した方が簡単に売り上げをあげられます。花市場は当たり前のように零細店をないがしろにして、大きな会社を優遇します。大きな会社が優先して花を仕入れるようになり、零細店はそのあまりモノを仕入れるしかありません。

花市場は大きな取引では割引を
それだけならば、まだしも。花市場は大量に仕入れる会社に卸す花を割引し始めます。これは重大なルール違反――のように見えますが、全くルール違反ではありません。流通では「大量に買えば安くなる」というのは不文律の常識なのです。ルール違反と感じるのは古い零細花屋さんであり、長年、本来は有り得ない――沢山買うほどに単価が高くなるという異常な生花の流通状況に慣れてしまった弊害です。

花市場間の競争

花市場は零細店から大きな会社を優遇し、大きな会社を中心に据えて考えるようになりました。なぜ、そんなことをするのか? 今までどおりに零細店と大きな会社を同じように扱えばいいのではないか?

もちろん大きな会社は取引量が大きく、そこと取引すれば大きな売り上げを上げられるから――というのもありますが、それだけではありません。

花市場は苦しい
大きな会社はある一定の取引量を超えると、「地元の花市場で仕入れるメリット」はほとんど無くなります。他の花市場が運送料を相殺するほどに割引をするならば、そちらで仕入れてもいいのです。それどころか、外国産の切花の場合は、商社から直接取引した方がかなり安くなるのです。

例えば私は広島の花市場に通っていますが、取引量が大きければ、福岡や大阪でもいいのです。東京の大田市場でもメリットがあれば、そちらで仕入れればいいのです。

つまり大きな会社は簡単に浮気をするのです。浮気防止のためには大きな会社に割引などメリットを提示しなくては花市場は売り上げを維持できなくなります。

状況が変化する
地方の花市場にとって地元の零細店が他の市場から仕入れることは有り得ませんでした。考える必要も無いことです。地元の零細店は地元の市場で仕入れをするしかないのです。理由は零細だからです。他の市場に出向いて仕入れるには、それなりの規模があり、そのコストを相殺するだけの売り上げが無ければいけません。そんな売り上げのない零細店は地元の市場から仕入れます。気に入らないことがあってもです。隣県の花市場のほうが良い花があると分かっていても、出来ませんし、する必要がありません。その隣県の良質な花が自分の商圏に流れてこないなら、気にする必要もありません。

前提が崩れる
ところが大きな会社が、少々離れていても花を仕入れることが出来るようになると、そうは行きません。他県でしか流通していなかった良質な花が、商圏に簡単に流れてくるようになりました。弱い花市場としか取引をしていない零細店は致命的です。

花市場の競争へ
こうなると花市場の間に強い競争が発生します。より良質でより安価な商品を供給できる花市場がどんどん大きな会社と取引できるようになり、売り上げを伸ばしていきます。そして負けた花市場と取引をしている零細店は打つ手も無く、売り上げを落として行きます。

優秀な生産者を取り合う理由

花市場同士で競争が発生しました。ところで花市場の競争とは具体的には何を指すのでしょうか??

外国産の花を大きな会社に卸すことで花市場は大きな利益を得ることが出来ました。大きな市場はより大きくなり、小さな市場の主要な取引先を奪い、さらに大きくなりました。

でも外国産の花は商社から直接仕入れることが簡単に出来ます。市場から花を仕入れるメリットは何なのでしょうか??

それは外国産以外のマイナーな花です。

花市場の価値を決めるのはマイナーな花
変な話ですが、菊・ユリ・バラ・カーネーションといった主要な花は外国で生産されるので、ほとんどを商社から直接仕入れて足りるハズです。それでも大きな会社が花市場で花を仕入れるのは、それ以外の花が花市場に流通しているからです。

さすがに上記の主要な花だけでは彩(イロドリ)が冴えない。プラスアルファがどうしても必要です。大きな取引相手を花市場に引き止めているのは外国では作られない「マイナーな花」なのです。

零細店が求める花が市場の価値を決める
それにデザインを主にした花屋さんやデザイン教室やブライダルを仕事にしている店は、量販店が扱わないような「更に高品質」な花を求めています。零細店とて都市部ではバカに出来ない力があります。マイナーな花を引き寄せているのはそんな零細店です。零細店が集まる大きな花市場には更に良品質で大量な花が集まります。それを目指して大きな会社も市場に来ているわけです。

花市場の価値を決めるのは
「零細店」であり、彼らが求める優秀な花や外国では出来ない花の生産者ということになります。

大きな会社は商社から仕入れればいいので、マイナーな花が無くなれば、さっさとそちらへ浮気するので、気を使っても意味が無いんです。

縮小する花市場――花鉢の市場外流通

大きな会社は取引量が一定量を越えると花市場ではなく、商社(輸入業者)から直接、外国の花を仕入れるようになります。それだけでなく、今まで花市場を通していた国内産の花も直接農家から仕入れるようになっていきます。

花市場の空洞化です。

切花と花鉢の事情の違い
これまでこのコラムで書いてきたことは「切花」に関してのことでした。切花は箱詰めできるので大量運搬も簡単です。それに切花が一定品質で大量に仕入れられる現在では、スーパーやホームセンターに大量に納めるのも、かつてのように難しくありません。つまり販売経路を増やせば、売り上げを伸ばすのは比較的簡単です。

ですが花鉢は違っていました。花鉢は土に雑菌や虫がいてはNGなので、輸入に強い制限があり、切花のように大量入荷・大量販売が出来ません。

また、花鉢は切花同様に多種少量の原則が働いています。その上に輸入制限ですから、花鉢に関して言えば、今後も国産が高いシェアを占めるのは間違いありません。

花鉢も市場外流通へ
しかし、大きな会社が切花の大量仕入れで発言力を増してくると、切花のケースと同じように零細店よりも優先的に花鉢を仕入れるようになります。多種少量を仕入れているうちは花市場を利用するのですが、大量に一種販売するもの――例えばパンジービオラの苗、シクラメンなどは生産者から直接仕入れるようになります。その方が管理が楽ですし、品質・価格も安定します。交渉する人員のコストが掛かりますが、それも売り上げがあれば問題ありません。

切花ほどではないものの、花鉢も花市場を通過しない「市場外流通」が増え、花市場の空洞化が進んでいきます。

花市場の相対取引が産んだもの

花市場は需要と供給を合わせる場所です。しかし現状では単なる大きな卸問屋でしかありません。

増える相対取引
大きな会社が大量に仕入れて販売する土台として、「外国産切花の高品質化」を上げました。それともう一つ大事な土台として「相対取引の自由化」があります。

相対取引とは
相対取引はセリを行う前に、市場と買参人との間で交渉して買うことを指します。セリが需要と供給が合致するところで価格が決まるのに対して、相対取引は市場と買参人の交渉。普通はセリよりも高く設定するものですが、買参人の取引量が多く発言力のある場合だと、簡単に値引きします。生産者の意思はここに入り込めませんが、普通はセリより高く設定するものなので、ケースバイケースです。

相対取引が大量販売に必要な理由
セリが始まるのは8時。終わるのは12時前後。荷物を集めて店舗に配送する頃には午後になります。大量販売をするスーパーやホームセンターではこんな時間に入荷するのを嫌います。特に傷みの早い夏は尚更。

それに対して相対取引は朝の6時以前に行われます。これなら開店に間に合います。「相対取引」は大量販売には絶対必要な制度なのです。

相対取引の自由化が産んだもの
市場の相対取引はかつて制限がありました。
市場入荷分の3割程度だったと思います。実際にそれが守られていたかどうかは怪しいですが、そういった制限がありました。そのために、相対取引だけでは全ての花を揃えるのは不可能でした。

ところが、その制限が無くなりました。これで量販店に納める花を開店までに用意することが可能になりました。

予約相対が占める割合は80%以上
花市場、というとどうも「公的」な感じがします。公的なニュアンスはありますが、実際は「民間企業」です。大量購入者を優遇するのは当然。これは明らかに数字に表れています。全国の花市場で予約相対取引が占める割合は80%以上(2010年)。大きな市場ほどその傾向は強く、年々大きくなっています。

ほとんどの花がセリを行わず、市場と買参人の間で価格が決められています。これでは単に花が通過しているだけです。市場ではなく単なる卸問屋です。

市場外流通が増加したからといって、それが大きな会社のエゴだと非難する気にもなりません。市場を通った分だけ生産者も手数料を払っているのです。それに市場へ送るだけの運送費も(買参人にも生産者にも)掛かります。結局それが価格に跳ね返り消費者も損をするのです。単に市場を通過するだけなら、直接取引して何が悪いのか? 市場外流通をすることで損をするのは花市場だけなのです。そもそもセリをしないということ自体が花市場の空洞化と言えるかもしれません。

市場自身が市場外流通を率先したようなものです。

花屋は儲からないからこそ、維持できた

儲からない花屋
花屋さんは華やかに見えますが、儲からない業界でした。これまで書いたように、多種少量を供給する業界の仕組みのために、利益には限界がありました。それでも多くの人が関わることで、活気があり、かつてはJFTD(花キューピット)の会合では毎年全国から花屋さんが集まっていたほどです。

でもそれも、社会全体が不景気になり財布の紐を締めると共に活気を失いました。そもそも「儲からないことが零細店が割拠できる理由」なのです。

花屋は八百屋ではない
花屋さんは、八百屋や雑貨店とは違い、入荷した花をかなり手を加えて加工する必要がある仕事をしています。単に並べているだけではありません。これは八百屋さんを馬鹿にしているのではなくて、仕事の質が違うという意味です。

花屋さんの手間
花屋さんの仕事はどちらかというと、チェーン店ではない飲食業に近いものです。レストランや小料理屋といった風です。入荷したものを水切りし、葉っぱをむしり、トゲを取り、そこから花束にしたり、フラワーアレンジにしたり、束にしたり、生け花用に組んだり――……管理と加工に手間が掛かります。この手間が大事であり鬼門なのです。

飲食店と決定的に違うのは、「需要が少ない」ということです。食べ物と比べるのは無理がありますが、やはり求められる度合いが違います。その割に利益率が低いです。

利益率が低い??!!
私が利益率が低い、と書くと反論する人がいるでしょう。単純に粗利益でいうと、生花業界は他業界から見ると、相当に粗利益率が高いのです。

しかし、それは花に対して加工している「手間」を軽んじているからだと言い切れます。

この手間――つまり人件費が花屋の利益を圧迫している一方で、花屋が多種の花を供給するために必要な経費だったのです。手間こそが生花業界を縛りつつも長年維持してきた大事な要素でした。

つまり儲からないことが零細店を支えていたわけです。

作業の単純化へ
季節感の知識が薄くなり、多種である必要が無くなり、外国から安く均一な商品が入荷するようになると、この手間の意味も無くなって行きます。それならば、作業を単純化することで、大量加工に対応すれば大きな売り上げを得ることが出来ます。単純化するわけですから、今までのように「手間」には利益を求めづらいですが、それでもビジネスを大きくすれば吸収できます。

花屋はサービス意識が低いという指摘

過去の商社による生花業界の参入の失敗
外国産の切花が高品質化する以前にも、大きな資本による生花業界への参入は何度と無くありました。ところがどれも失敗。玉砕したときの捨て台詞が

「花屋はサービス意識が低い。
これでは花業界は発展しない」

というものでした。
この指摘はその当時であっても、現在であっても、完全な的外れです。まず花屋のサービス意識は低いかもしれないですが、サービスは低く無いということです。もしもサービスが低いのであれば、大資本による参入が失敗するわけが無いのです。多種の花を丁寧に供給すればよかったのです。もちろん、当時の流通では大資本であるほどに、それは難しいことでした。これは大資本が得意とするビジネスと花の需要が合致しなかったということです。

そしてもうひとつ。花業界が発展するということは――利益が大きくなるという意味であり、零細店が大資本に駆逐され、やっていけなくなるという意味になるわけで、「儲からないことが零細店を支えていた」という理論からいうと、自ら首を絞めるようなものです。

大資本に不利な時代から有利な時代へ
当時は多種を供給することが大事な花屋のサービスでした。現在とは少々事情が違います。しかし、それにしてもスケールメリットが利かないことは商社にも分かっていたハズです。なぜ花業界に何度も首を突っ込むのでしょうか?

よく分かりませんが、私は正直、バカにしていました。よく調べもしないで首を突っ込むから失敗するんだ。なんでも大資本で押し切ればどうにでもなると思っている。だから「サービス意識が低い」とか「業界が発展しない」だの的外れなことを言っちゃうんだよ――と。

ところが、外国の切花の品質が向上したときに「ヤラレタ」と思いました。確証はありませんが、おそらく品質の向上に商社が絡んでいたはずです。薬品か、技術か、検疫の簡略化か――とにかく完全にやられました。カードゲーム大富豪でいうところの革命です。

ヨーロッパと日本の花の価値、それぞれ

花の知識が社会からなくなりつつある、といっても、日本の花文化はそれほど弱いものではなく、春のサクラサツキ、梅雨のアジサイ、冬のツバキといった「常識」といえるような知識はまだまだありますし、花に対する美意識はやはり相当強いと思います。

私は昔、日本は花に対する意識が低いと思っていました。でも、それは違いました。ヨーロッパでは花を贈る、花を飾るということが日常化しています。日本はそういった「花を買う」行動は弱いです。ですが、美意識という意味ではヨーロッパよりも確実に高いです。

ヨーロッパでは花は品質ではありません。花そのものが大事です。ヨーロッパの人にとって植物は豊かさの証です。特にヒマラヤ以北の人たちにとって花は長い冬の終わりを告げる希望の光です。

貴族たちは特に柑橘類――オレンジに憧れを持ちました。太陽と重ねたのでしょう。春から秋に掛けてならば、ヒマラヤ以北でも生育しますが、冬の寒さで枯れてしまいます。そこで冬になるとオレンジ畑を覆い隠す建物を「毎年建築」しました。それを「オランジュリー」と言います。オランジュリーという名前は今でもヨーロッパ各地に残っています。

日本とヨーロッパでは花に対する感覚に微妙な差があります。日本では自然全体の象徴であるのに対して、ヨーロッパでは豊かさの象徴です。より山盛りである方が嬉しいのです。

日本の花の美意識は、花が盛りだくさんであることではなく、気遣いや、メッセージや、教訓、物語、四季、感情、人生、儚さ、といったややこしく繊細なものです。日本庭園が自然を切り取る、もしくは縮小・凝縮したものであることを見ても、明らかです。どちらが偉いということではなく、質が違うのです、

しかしそれを花業界のビジネス、売り上げに結びつけるのは難しい――ここが問題です。

花市場が消える可能性と、花市場が無い国

花市場から大きな会社が逃げていくのは時間の問題。刻一刻と終わりが近づいている――かもしれません。

市場もより大きく
東京の大田市場は今後は花市場が青果市場――つまり野菜や果物を扱う市場と競合していくようです。花を仕入れるのがスーパー中心になれば、必然、花市場と青果市場とが別々になっていると面倒極まりなく、一箇所で仕入れが出来れば、スーパーは嬉しい。だから花市場も青果を扱うようになる。

なるほど合理的です。
でも、この行き着く先は「崖」です。

花市場が無くなる可能性はある
漠然とですが、花市場が日本から消えて亡くなるなんて有り得ない、と思っているのが大半でしょう。ですが、日本のように花市場が沢山アル国なんてのが珍しいです。

花市場が無くても花は流通する
例えばイギリスには花市場がありません(ほとんど無いと考えて差し支えない)。ガーデニングの本場すら、です。アメリカもオーストラリアもありません。他の国に関しても、知らないだけで「無い」国の方が多いんじゃないでしょうか? ではそんな国、まして新興国でもない先進国で「花市場」がないのに、どうやって花が流通しているのか???????

量販店です。

量販店が生産者から直接仕入れて、それを売っているのです。流通経路はそれだけです。花市場は無くても花は流通できるのです。花市場の巨大化は輸入切花が大勢である限りは失敗します。日本から花市場が無くなる可能性は十分あります。

花屋にとって花市場は神様です

花屋にとって花市場は、神様です。彼らの手の中であがくことしか出来ない、悲しい孫悟空のようなものです。口では少々批判をしても結局は従わざるを得ない。そういう現実があります。

嘘だろ?と思いましたか??
都市部の生花店の場合――都市部といっても花市場が複数存在して選択できる環境の花屋ならば――私の書いていることは甘えと考えるはずです。

あがく零細店
2012年現在、すでに地方の零細店ですら、その多くは地元以外の花市場からもバンバン仕入れるようになりました。外国産にシェアを奪われ、多種を揃えられなくなってえば、多種を提供するという目的の従来型の零細店は地元の花市場だけでは、その体裁を整えることも出来ないからです。

ならば大きな会社とはそれほど目くじらを立てるほどの差異は無い――ような気がします。しかし零細店は規模が小さく、仕入れに割ける人間は限られ、その人間もいくつもの業務を兼ねているのが現状です。むしろ大きな会社との差は広がるばかりです。

花屋と花市場は共依存関係
花市場の最大のメリットは「花が集まる」ということであり、そこで新しい情報――花の商品の情報――を見て判断をします。一箇所に集まるからこそ、零細店は花市場に集まり、花市場にさらに多種の花が集まるのです。

花市場に一箇所に花が集まること、それは花屋にとってアウトソーシングです。いわば花市場への「業務委託」です。大きな会社ならば、選任の仕入れ担当者が全国を飛び回って仕入先を確保するところを、花市場が零細花屋の代わりに全国の農家から花を寄せます。

多種を揃えられない弱い花市場は零細店にとっては花市場の意味を成していません。

だったら、地元の花市場と縁を切るべきだ。
なるほどそのとおりです。
現実はなかなか、そううまくは行きません。

零細店は他の花市場からも仕入れが可能です。確かにそれで問題は無いように見えます。しかし、すでに体力を失った花屋が他の市場から運送料や相対のリスクを負ってまで取り寄せることは難しいですし、何より都市部の大きな花市場で「安く」仕入れた「高品質」の花が、簡単に地方都市に流れるようになると、経営上全く歯が立ちません。勝てる理屈がほとんど無いのです。

理想は地元の花市場が元気であること
花屋さんの誰もが、それでも地元で仕入れられることを望んでいます。遠くまで出張るのは面倒です。そんなことをする経営・肉体の体力が無いのです。批判をしつつも期待を寄せ、出来れば――と考えています。花市場はマーケットを制御統括することも出来る神です。ルール(仕入れのルール)も駒(寄せる花)もメンバー(買参人)も――極端な話ですが――生かすも殺すも自由自在です。神が死ねば、生き残ることが出来る花屋は極々僅かです。

巨大化するしかない花店の事情

デザインとサービスは価格を凌駕できるか?
花屋さんというと、フラワーデザインやサービスといったイメージがあります。ですが、日本中の花屋さんで、「小売」だけで経営を成り立たせている店の割合は少ないです(実数は分からないですが)。

では小売以外に何があるか?というと、デザイン教室というのもあります。他には生け花の花材を納める、葬式の花を納める、などです。小売といっても、企業に納める仕事も小売に入れず分離して、来店したお客さんに販売する小売だけにすると、ほんとうに極々僅かになります。

大体、デザインコンテストで優勝するような人の店でも売り上げの主体はデザインとは関係ない、というケースが多いです。

零細店の売りは?
そのうちスーパーや量販店に「お供えの束」「日常の花」を奪われ、観葉植物や蘭類をホームセンターやネットショップに奪われてしまえば、残るのは純粋なフラワーデザインの仕事くらいになります。

こうなると生き残る「パイ」は相当に少ない。零細店が残る隙間はかなり狭い。その零細店はどこから仕入れるかというと、その頃には地方の花市場は完全な機能停止状態でしょうから、都市部の大きな花市場から仕入れます。

それでフラワーデザインを主戦とした零細店は現在と同じように存続できるでしょうか??

厳しいです。

都市部の大きな花市場で仕入れる限りは、大きな会社に対して仕入れの段階で勝つ見込みはありません。強みである多種でも勝てません。「住み分けしてるんだから、そんなこと関係ない」と考えがちですが――――

ブライダルも葬儀も大きな会社が
ブライダル市場という大きなマーケットは、安定した売り上げが見込めるので、大きな会社がすでに参入しています。葬儀もそうです。葬式業界は中国産の菊を利用すれば、年末やお盆といった菊が希少になる時期も価格も安定して利益が出やすく、規模が大きくなればなるほどに、市場での取引が有利になります、

中央→地方 へと花が流れます。これがデザイン重視の店舗まで圧迫する可能性は高いです。季節感や花の知識が無くなっていけば、より可能性は高まります。

花屋のチェーン化か、ネット購入の一般化
結果、従来の零細店は姿を消し、力のある花屋はチェーン化するでしょう。零細店が実店舗は縮小し、その売り上げの縮小分をネットショップでカバーするのが精一杯ではないでしょうか。

特に今までありえなかった「チェーン化」は仕入れ事情からも、十分有り得る――というかそうするしか存続が難しいと考えています。

地方生花店のネットショップの条件

ネットショップは以前よりも手軽に始められるために、リスクは小さくなり、「可能性」という意味では明るい分野となりました。

現実は厳しい
実店舗では近くにある店だけがライバルで、そこに勝てば「商圏ナンバーワン」となりえますが、ネットショップでは少々サービスが良かろうが、商品が良かろうが、そのくらいではナンバーワンになるのは厳しいのが現実です。なにせライバルが日本中にいるのです。その中には都市部の仕入れで有利な店舗もありますし、フラワーデザインコンテストで入賞するような店舗もあります。また、先にネットショップを開店している店舗は様々なことで「先行」しているため、表には見えないテクニックや、積み重ねたものがあり、なかなか勝てません。

ネットショップで重要なのは独自性です
少々負けていても、「目新しい」商品は伸びます。他では取り扱えないものは、ほぼ独占市場となります。そういった分野は需要が少ないために、大きな利益・売り上げは見込めませんが、それでも、そういった強みを幾つか持っていれば、利益は上げられます。出来ないことはないですが――

わたしも過去にネットショップを開いていました。売り上げはそれなりにありましたが、面倒なのでやめてしまいました。売り上げは上がるのですが、それに必要な労力が凄かったですし、何より「自分には合わない」と止めてしまいました。

問題は仕入れ
私の場合は「造花」の販売でした。だから仕入れに関しては問題がありませんでしたが、これが生の花や観葉や蘭や花鉢だったら―― 最初からやっていませんでした。というのも、ネットでは全国の花屋がライバルになります。となると地方の品質の低い商品しか揃えられない花市場では、最初から勝負にならないのです。

価格も品質も勝てない。それに大消費地は当然、都市部です。都市部に商品を送るためには、都市部に近いほうが輸送費が安くなる。地方から送る方が輸送費が高いのです。ネットショップでも店舗は都市部に近い方が有利なんです。

都市部に店舗が無くてもいい、なんてのは方便で、都市部でなくても都市部に隣接する郊外くらいの意味合いです。そこなら色んな面で有利です。都市部の市場に通えて、都市部に宅配しても輸送費が安い―― クロネコヤマトなんて当日宅急便なんてのもやっていますから、消費者にとっても便利なはずです。

これらをカバーしても見込めるものを
大消費地から離れた地方でネットショップを開くには、それをカバーして余りある独自性や強みが必要です。口で言うほど簡単なことじゃありません。理屈なんて絵空事です。でもそんな強みを持っている花業界の人が居ます。

それは―――生産者です。

生産者といっても切花ではなく「花鉢」「蘭」「苗」「寄せ鉢」といった鉢物生産者なら勝てます。市場や花屋の利益をすっ飛ばせば、かなり安く提供できます。ラッピングや宅配梱包といった問題はありますが、それはヤル気で十分カバーできることです。

この生産者のネットショップ参入が花屋と市場の首をギュウギュウと絞めます。

生産者のネットショップ参入の影響

ラン・寄せ鉢、その他の花鉢の生産者はネットショップに参入するようになりました。最初こそ、宅配の失敗や気配り不足から、トラブルもあったでしょうが、徐々にその問題をクリアすると、ネットショップこそ生産者の救い――花屋と花市場から自立する絶好の機会となりました。

花屋と花市場と生産者
それまで生産者は「良い商品」とは何かという自問自答を繰り返しましたが、ハッキリとした答えがありませんでした。

というのも生産者が売り上げを伸ばすためには「花屋が欲しがる」商品を作らなくてはいけません。そのためには生産者とつながる花市場が花屋の需要を把握していなくてはいけません。ところが花市場はいまいち花屋の需要を把握していませんでした。

その原因は花市場にとって零細花屋は文句ばかりで煩いから、というのもあるでしょうし、何を市場に寄せても、零細店は「花市場から買わざる得ない」という市場の驕りがあったかもしれません。でもそれは表面的なこと、他にもこんな理由があったはずです。

花屋さんの利益構造に答えが無いのです。

花屋さんは売り上げの仕方が各店舗ごとに大きく違いがあり、花屋の需要と一口に言っても、取引相手・商圏・店主の考えなどで、内容が全く違います。量販店は短い花を求めますが、生け花を中心にしている店では長い枝物を欲しがります。花束を主にしている店は、その中間になります。繁華街や企業取引の店では巨大な胡蝶蘭を欲しがりますが、一般家庭には大きすぎます。むしろ安価で小さなミニ胡蝶蘭の方が適しています。

こういった主張を取引量の少ない零細店が言うのですから把握するほうが難しい――まぁ、その気があれば出来ないことではないでしょうけど――わけです。

生産者が消費者に直接販売する
そこで生産者がネットショップで消費者に販売するようになれば、消費者の需要を把握しやすくなり、商品をそれに対応させていきやすくなります。むしろ需要を喚起しやすいのではないか?と思います。

しかしこの流通は一切、花市場を通らず、当然花屋も通りません。これによって花市場の品数が減りました。それだけでなく、生産者はネットショップでの販売を優先し、そこで出来るだけ売り抜けようとします。そしてネットショップで売り時期を逃した商品――つまり売れ残ったものを花市場に出荷するようになりました。これは花屋と花市場にとっては致命的です。

花屋にとって大事なのは季節感です。旬を逃した商品が少々安くなったとしても、そんなものは所詮、行き遅れの残り物。さらに零細店の力が落ちて行きます。

花屋は非情な守銭奴か? 生産者がネットに走る別の理由

なぜ生産者はネットショップを運営するか?
生産者が一つ100円で売るとします。これが市場を通ることで5%~10%の手数料を取ります。これを仕入れた花屋が200円~250円で売ります。生産者としては、花屋は儲け過ぎに見えます。ネットで150円で売れば、生産者は様々な面倒なことがありますが、花屋を出し抜くことが十分可能です。

つまり儲かるんだからネットショップをする、という簡単な意味です。でも、それだけでネットショップをするかというと――それは違います。生産者とて花業界の一員です。花屋が即死しかねない手法を全員が取れば、この業界の危機を招きかねない。

そんな方法をとらざるを得ない事情があります。

多種少量の原則
生産者は長い間、「なぜこんなに一生懸命に作った花を安く買い叩くのか?」と腹を立てていたはずです。実際、花屋は花市場で非常に買い叩きます。それが資本主義のルールであっても、生産者から見ると、非情な守銭奴に見えたはずです。そこにも多種少量の原則が働いていました。

多種少量と書きましたが、この少量具合が他の業界から考えられないくらいに半端ではありません。地方の花市場内では一種の花に必要とされる適正な量がそもそも「滅茶苦茶小さい」のです。50本入りの箱が一つ市場に入荷したら一本100円なのに2箱入荷しただけで80円に値下がりし、4箱になると40円になるなんてのは珍しい話ではありません。かすみ草といった人気の花でも10箱入っただけでガクっと下がります。半値なんて普通でした(今はそうでもない)。

例えば、私が一本100円で売れる花を1箱納めたとします。それだけならば100円です。でも誰かが4箱納めたら、どうなるか? その上、その誰かの花のセリ順が先になったら?? 価格はどこまで下がるでしょうか?

季節感・花の知識が失われる中で零細店は、売り上げを落とし、市場での購買力が下がると、この「滅茶苦茶少量」だった需要が更に小さくなり、生産者の花が必然余るようになると、価格は底なしに下がりました。

花鉢の生産者がネットショップを運営するのは「生きるため」です。従来どおりに出荷していては、危険――そういう判断があったはずです。

生産者がネットショップで販売することを、花屋も花市場も責められません。そうする以外にはどうすれば良かったか??? この問いに答えられないのですから。

それでも花の流通量と売り上げが変わらない理由

いろいろと御託・屁理屈を述べた割に、花の流通量はさほど変化していません。それは何故か? という理由です。もちろん推測を多分に含むので、ある程度いは差し引いて構いません。

流通量と消費量は違う
花屋さんの悩みの一つに「花を捨てる」という作業があります。花屋さんは「花が好き」で始めたはずです。でも日々古い花を廃棄しています。商売ですから、古い傷んだ花を提供する事は、即サービスの低下です。廃棄も大事な仕事です。

一般に花屋さんは仕入れた花の2割は廃棄することになる、といわれています。この廃棄分(ロス)を減らすのが経営上のテーマではありますが、それに関しては別のページに譲ります。

流通量は微減
さて、花は売れない、利益が出ない、と書いていますが、花の流通量自体はさほど減っていません。ただし市場外流通が増えている(大きな会社が商社や生産者から直接買うこと)ために、これらの実数は推測の域は出ないです。それでもそれほど減っていないのです。
参考: http://www.maff.go.jp/j/seisan/kaki/flower/pdf/meg231.pdf

流通量は虚数
これは流通した数であって、「消費者が手にした数」ではありません。従来の零細店だけでなく、多くのスーパー・ホームセンター、コンビニでも販売されている現状では、単純な売り場面積は、かつてない広さになっています。

売り場面積そのものが拡大し、そこを埋め尽くす為に花が必要になりました。つまり需要――消費の需要ではなく、量販店が必要としている花は増えているはずです。量販の店舗数・面積は従来の花屋から見るとトンでもないものです。量販店は「品薄」を嫌います。チャンスロス(機会損失)の発生、店舗がみすぼらしい印象になるのを嫌うからです。それでも、花が売れる数は決まっています。売り場面積が増えても「消費者の花の需要」は増えていません。むしろ減っている――ロスは決して少なくない、と推測します。

確かに花の流通量は微減です。それは表面的なもので、花の売り場面積が増えたことによって、減少が鈍い――もしくは鈍く見えるだけだと思います。花の消費が根強く力があるから――とは思えません。まだ御供えに花を飾る、食卓に花を飾るという習慣のある世代が残っていますが、その世代が居なくなるとすぐに、量販店ですら売り上げは僅かになっていく可能性は高いでしょう。

生産者は量販店に振り回されないよう
量販店の強みは損切りです。零細店が簡単に捨てられない分野でも利益が出ないとなると、さっさと切ってしまいます。現在、量販店は勢いがあるように見えますが、どこかで、この業界を去る可能性もあります。正直な話、日本の花を飾る感覚は薄れていきますし、消費者のフトコロは更に厳しくなる一方。量販がメインとしている低所得者が花を消費するとは思えません。

生産者はブライダルといった高品質を求める分野をターゲットにしないと、突然、量販が去ったときに――もしくは商品を完全に外国の花に切り替えたとき――売り上げがほぼゼロということもあります。

地方花市場が取るべき数少ない戦略

地方花市場が取れる戦略は少ない
都市部の中央の花市場は更に大きくなり、荷を集められれば日本中の大きな花関連の会社と取引できます。もちろん、大きな会社が花市場に魅力を感じなくなれば――または単純作業のために単種を大量に求めて、商社・農家との直接取引だけになっていけば――都市部の花市場とて無事ではすみません。

でも、その大きくなる過程で地方の零細花市場はほとんど壊滅してしまうでしょう。

その中で地方の零細花市場が生き残る道はオリジナル商品しかありません。「花市場は単なる卸になってしまった」と書いていましたが、それも事情を鑑みれば仕方の無いことです。それならば、規模を生かして徹底的に卸に特化していくのも手です。農家と契約して、マーケットが必要な「商品」を作り、提供する。買い手は零細店だけでなくホームセンターなど大きな会社も含みます。大事なのは農家とホームセンターが直に結びつかないようにすること。それも「商品開発の力が花市場にある」と認識してもらえれば、露骨に優秀な農家を奪うような取引はしないでしょう。

商品力があるならば――です。

こんな方法も――
菊やバラ・カーネーションといった花が大多数を占めますが、それ以外のマイナーな希少植物は僅かです。その希少植物こそが零細・大きな会社共に必要とするモノで、花市場の価値を決めます。
ならば、このマイナーな希少植物を買い占める、という戦略もあります。●●を買うにはあの花市場と取引しないといけない。そうなれば、地方の零細花市場と大きな会社も取引します。すると必然マイナーな希少植物以外のものも取引するようになるでしょう。

例えば花屋には絶対必要ながら意外と農家が少ないカスミ草、希少で比較的高値のサンダーソニア、枝モノ全般、などなど。

そうはいっても全国では総量が大きい。実行するにはそれなりの資金が必要です。全国の生花会社が「●●を買うにはあの花市場と取引しないといけない」と考えるようになる前に、資金が尽きる可能性が高いです。まずは占有出来そうで、効果が高そうな花をピックアップして、各個撃破していきます。これなら都市部の中央市場を出し抜けます。元々大きな敵と戦うときは各個撃破が基本です。良い結果が出るとは限りませんが、指をくわえて見ているよりマシです。

マーケットが小さくなり、市場が淘汰されてくると、中央の都市部の市場に花が集まり、地方に流れない。その頃になると、身動きがとれず、なす術は無くなります。その時に資金があれば占有はしやすいでしょう。現実的ではないでしょうが。

花の需要がゼロになるわけではない――は零細店には無意味

花の需要は減るが、ゼロになるわけじゃない
消費者の花の知識が減り、需要の質が変わります。それはコレまでに比べれば、いわば表面的な需要で、質は均一になります。それが量販店のビジネスに合致し、花の零細店は駆逐される――そういう話を書いてきました。

ですが、花の需要がゼロになるわけではありません。
だから零細店にも生き残る道は必ずある。そう主張する人がいます。それは正しいです。零細店にも生き残る道はあります。ですが、それは相当に狭い道です。
別の道を通って、同じ結論に至る
ところであるコンサルタントが、近い将来に量販店の売り上げが8割になり、零細店は3割減る――と言ったらしいです。多分、このコンサルタントは「他業界で起きた流通の流れ」からの意見で、私は花の流通と需要からの見解ですが、私も同じ意見です。
結局、これまで「特殊な需要」「特別な存在」だった「花」が「普通の商品」としての「花」に成った、それだけのことです。
花の需要はゼロにならない――通る道が変わるだけ
生け花の知識が減ろうが、花を必要とされるシーンはあります。結婚・葬式といった大きなマーケットだけでなく、誕生日や歓送迎会・退職といったギフトのマーケットでも小さくなったとしてもゼロになるわけじゃありません。でもその「花」が「昔からある零細店」を通して購入されるかどうかは別問題です。
例えば
例えば、かつてはどこの町にも「文具店」がありました。でも今はありません。かといって文房具が流通していない、というわけではありません。ホームセンターやコンビニ、大型書店、その他大型店に販売が移っただけです。文房具に限らず肉屋・魚屋・八百屋・本屋もそうです。
花は量販店が主役に成る
花もそうです。これまで細かいサービスで対応してきた零細花屋でしたが、花の需要が変わり、供給が変化し、量販店による販売で対応出来るようになると、もう勝てません。これからは零細花屋ではなく、量販店を花が通過します。

花の需要がゼロにならないことと、売り上げがあるかどうかは別問題です。零細店であっても、お客さんに来てもらうための理由をこちらで用意すれば、売り上げを見込めますが、それはそう簡単なことではないでしょう。

花の需要は無くならないから、花屋はまだ大丈夫。というのはあまりに楽観的すぎです。

JFTD(花キューピット)の失策は?

花キューピットは全国に花が送れるシステムです。花屋さんが遠くの花屋さんに依頼して、花をお届けします。JFTDはその仲介をして決済をする組織で花屋さんから選ばれた人が運営していました。
花キューピット失策をしたか?
結論から言うと花キューピットは社会に必要とされなくなりましたが、そこに明らかな失策があったかというと、そうは思いません。取次店を作ったことで配達店が下請けになってしまったこと。I879でネット受注を受けるようになりましたが、これで花が単なる「商品」となってしまいました。FAXによる受注処理をPCでするようになり、PCが扱えない人が退会した。結果として悪いものがあるかもしれませんが、「悪く言えば」という程度のもの。どれもが時代の潮流で必要な変化でした。
単なる組織の賞味期限切れ
ネットが広がり、花の流通と花の需要が変化して、花キューピットの存在意義はほとんど無くなってしまいました。
特に花の需要が変化することで、花の存在意義は薄れ、「花じゃないといけない」というシーンは極々限られると、花は他のギフトと大差ないものになりました。するとギフトとしてはケーキ・和菓子などのスイーツ、その他食品、その他雑貨、宝飾品、ファッション用品ともライバルとなります。ですが、それらに対抗するだけの『何か』を花キューピットは提示する事が出来ませんでした。

わたしは単に組織の賞味期限切れと、社会の変化で役割をなくしてしまっただけと考えています。

2013年3月31日に閉店しました

全て書ききったとは思いませんが、これでこの話はおしまいにします。というのもわたし、2013年3月31日に45年続けた花屋さんを閉店してしまったからです。

45年と言っても、両親が始めた花屋を私が閉店させたという形です。もしかすると批判もありましょうが、我ながら賢明な判断だったと思っています。これ以上は「私には不可能」という判断です。

その中でまとめたのがこのコラムでした。いそいで書いたので、文章にしてもロジックにしても説明不足な部分や飛躍を感じるところもあると思いますが、現実を捉えていない――ということは無いはずです。

生花店に関わっている人なら『共感できない部分もあるが大体が同意』、くらいではないかと思っています。かなりネガティブなことも書いているので、不愉快な人もいるでしょう。ですが、ここでおしまいです。なにせもう部外者ですから。
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